電子(e⁻)マネーが使えるお店情報サイト

🔰本サイトについて

メニュー
御堂筋

大阪市の南北を縦貫する目抜き通り

道路
御堂筋みどうすじ
説明
大阪のキタ(梅田)とミナミ(なんば)を直線で結ぶ南北の大通りです。
かつて大阪一の目抜き通りだった堺筋から西に新たに作られた道路で、当初は幅6m程だったとされる細い裏通りを再開発し、完成しました。完成以降は市のメインストリートがこちらへと移っていきました。
この道路は、当時の尺貫法で道幅24間(約43.6m)で作られ、中央4車線と左右に1車線の側道を有し、一部区間を除き北から南方向の一方通行となっています。但しこの側道は廃止が決定しており、順次歩道に転用される工事が実施されています。
歴史
御堂筋という名は、慶長2年(1597年)創建の「北御堂(西本願寺津村別院)」と文禄4年(1595年)創建の「南御堂(東本願寺難波別院)」を繋ぐ道だったことに由来します。いつ頃からこの名が使われ始めたのかは不明ですが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の記録に登場するのが記録上の最古となるようです。
細い裏通りだった御堂筋に転機が訪れたのは1921(大正10)年です。梅田(当時の国鉄大阪駅)と難波(南海電鉄難波駅)に鉄道駅ができたことで「南北軸」が必要となりました。当時の第7代大阪市長 關一は、「御堂筋を大通りにし、電柱を地下に埋め、地下鉄も通す」という100年先を見通した壮大な「都市大改造計画」を打ち出しました。当然、当時の大阪市民もこの計画には度肝を抜き、期待もされますが問題は山積していました。
まず住宅密集地で、ここには先祖伝来の土地を守る大邸宅や暖簾を守り続ける商家が多数存在したことです。このため説得の難航に加えて多額の立ち退き料が必要となりました。道路建設費の実に9割がこの立ち退き料だったそうです。加えて軟弱な地盤も問題となりました。元々このあたりは海で、プリン地盤と呼ばれる軟弱地盤です。大正時代には現在のようなボーリングマシンやショベルカーは存在しないために当時の土木技術によるトンネル掘削工事では難航を極め、近隣の家が傾き賠償金を求められたり、地下水が枯れたりといった問題が頻出したそうです。それでも1926(大正15)年10月に始まった御堂筋拡張工事は11年もの歳月を掛けた1937(昭和12)年5月11日、遂に完成したのです。
中央が高速車道、その両側に緩速車道、その外側に歩道、とする現在の御堂筋の原型が完成しますが、当時は車が庶民から程遠い存在だったため大通りながら車通りは殆どなかったそうです。しかし關市長の目論見通り、沿道は空前絶後の大発展を遂げ結果として大きな経済効果を生み出し大阪経済の中心として発展していくことになり、現在ではなくてはならない重要な道路となっています。
構成道路

※道路に面した店舗を表示しています。ショッピングモールなどで、モール自体が面していても店舗が奥まった場所にある等の場合はここには出ません。なお、情報はR7/7/27時点で確認されていますが、それ以降も鋭意追加中です。

クリップボードにコピーしました