【閉店】吉野家 築地店
履歴
この店は「店舗がある築地市場が豊洲市場に移転することに伴う、築地市場の営業終了」を理由に既に閉業しています。掲載情報は営業中だった時のものです。
この店の後継は、「吉野家 豊洲市場店」です。
築地市場が豊洲市場へ移転するため閉業を余儀なくされるまで、様々な波乱を乗り越えながら牛丼を提供し続けました。味はもちろん他店と変わりませんが非常に狭かったため、この店独自ルールが色々とあったようです。
また市場で舌が肥えた顧客対応のため他店には存在しない「特殊注文」が様々あり、「ネギだく」「トロだく」「トロぬき」など玉ねぎ増量や脂身の増減のほか、ご飯軽め「かるいの」、肉を丼の底に入れて飯を盛る「にくした」、冷や飯「ツメシロ」、逆に通常より熱い飯「アツシロ」などがあったと伝えられています。
2004(平成16)年に牛海綿状脳症(BSE)流行で米国産牛肉が調達不可能になると吉野家も牛丼がメニューから消えますが、この1号店でのみ国産牛肉を用いて牛丼の提供を続けていました。ちなみに対抗の松屋は中国産、すき家はオーストラリア産牛肉を使って牛丼の提供を再開していましたが、吉野家はアメリカ産牛肉の輸入再開まで牛丼がメニューに復活することはありませんでした。理由は簡単で、材料である「穀物肥育した肉用牛のバラ肉」を安く安定して供給できる国がアメリカしかなかったからです。
当時約1,000店の吉野家で消費する牛バラ肉を頭数換算すると年間300万頭。日本の畜頭数100万頭前後では到底足りませんし、オーストラリアは1,000万頭前後ですがその1/3の追加需要が生じるとなると価格が暴騰することは目に見えているほか、オーストラリア牛は牧草肥育が主流で風味が異なることや部位別取引ではなくセット販売取引なので吉野家単独では使いにくいという問題もありました。
レジ構成とは?
交通系電子マネー、およびWAONを利用した場合、カードの履歴として決済したレジ(の決済端末)の番号が記録されます。交通系電子マネーは交通利用と合算で過去20件まで、WAONは過去3件まで記録します。
そこで、この対応する電子マネーが利用できるレジ情報を収集し、ここに掲載しています。
ピクトのみかた
は、確認されたレジを意味します。確認した大まかな時期を併記しています。確認時期から時を経ている場合、現状と変わっている可能性があります。
は、まだこのレジの調査結果が届いていない、または届いていても登録が完了していないことを意味します。ご利用の機会があればアプリより報告をいただければ幸いです。
は、推定で登録されています。登録内容が不正確な可能性があります。ご利用の機会があればアプリより報告をいただければ幸いです。
この情報の活用方法
カードに書き込まれる番号をもとに、利用した店名を表示するAndroidアプリ「全国のICカードこれひとつ」を提供中です。
このアプリを利用すると、スマホ等でカードを読み取るだけで電子マネー決済の履歴確認が可能となります。
なお、このアプリでもまだ登録されていない店は表示できませんが、その場合もこのアプリから登録・報告が可能となっています。興味があればお試し下さい。
近くの店 (周囲10km内で最大10件)
見つかりませんでした
表示される店の条件
ここに出てくる店は、店として登録され、なおかつ店の座標情報が登録されているものです。
もしご利用の電子マネー対応店がまだ登録前であったり、あるいは登録されていても座標が未登録の場合、お知らせ下さい。随時登録作業を進めております。
距離についての補足
表示される距離は、平面上直線距離、つまり地図上での直線距離です。実際には階の違いがあったり、また適切な道がなく行くまでに遠回りが必要であったりする可能性があります。
吉野家の1号店であり、吉野家の牛丼発祥の地です。
1899(明治32)年、当時料亭で働いていた松田栄吉が流行し始めていた「牛めし」に目をつけて東京都中央区日本橋の魚河岸で創業したことに始まります。1923(大正12)年の関東大震災後に魚市場と共に築地へと移転、1945(昭和20)年の東京大空襲で焼失、戦後は屋台で営業を再開しつつ、栄吉の子息 松田瑞穂が店を継ぎ、市場近くで店を再開店するため尽力し1947(昭和22)年に店舗が再開しました。1958(昭和33)年に吉野家は株式会社として登記され、瑞穂が初代社長となりました。翌1959(昭和34)年に移転したのがこの店で、ここで築地市場閉業まで営業を続けました。なお、元々個人店だったこともあり店は長くこの1店のみで、2号店の新橋店が開店したのは事業拡大を開始した1968(昭和43)年です。